2020年1月16日(木)の「シリーズ 検証・かんぽ問題② 郵政グループ 再生への課題は?」というNHKの番組を見て企業の中で同じ過ちが未だに繰り返されているという認識を新たにした。
番組では優績者と呼ばれる人たちの中に今頃になって自分たちの責任が問われていることに不満を持つ人の声を拾っていた。成績を挙げれば不正契約が帳消しになると思っていたのだろう。
昔から営業は数字を上げてなんぼと発言する人間が会社に一定数いる。そして、そう発言する人たちが自ら不正に手を染めたりしている。しかも、不正が咎められなければ出世している場合が多い。
確かに売上が会社の維持には必要だ。しかし、架空契約や客を騙すような契約で成績を上げて出世して本当に喜んでいる人は一握りの人だけだと思う。しかし、同調圧に弱い日本人は成果のプレッシャーに負けて“勇気”を出して不正に加担してしまう人も多い。
挙句、うその成績を祝って祝杯を挙げたりしている。そして、赤信号、みんなで渡れば怖くないという空気が醸成されてしまう。みんながやっているのだからしょうがない。
しかし、不正が世間に発覚すると企業は途端に犯人捜しを始める。そして、運悪く、自分の不正が発覚したときに成績を挙げているのにと不満を漏らす人が必ずいる。
限りなく、過大な目標を達成することは誰にもできない。成長は必ず鈍化する。それなのに成長なくして経済発展なしという教義で経営者が社員を鼓舞するから企業は道を逸れてしまう。
有限の世界の中に生きているのにチャンスが無限にあるかのようなことを言うからおかしくなる。資源を浪費し、温暖化が進んでもフェイクだと主張する人々がいる。自分がいなくなった後の世界など知ったことかということだろう。
成長でなく、有限な資源をどうやって公平に分配するかというのがこれからの世界だと思う。共存共栄の延長にしか持続的な社会など存在しない。成果主義は共存共栄とは相容れないエゴの上に成り立っている。
株主資本主義は、株主の最大利益を追求することを正当化するための教義だ。公平な資源の分配とは真逆の思想だ。貧しくとも公平であれば、人間は許容できる。少なくとも自分のしあわせを模索することができる。
しかし、不公平感は争いを生む。公平こそ永遠の命題だと思う。どこまで行っても不公平は完全になくならないだろう。それでも問題が起きたときに公平という物差しで解決策を探すしか道がないように思う。
結局、譲り合うしかない。保身のために譲り合うことができない人は、結局、最後はろくな人生を送れない。
カルロス・ゴーンがこの先どんな人生を送るのかというテーマは成果主義の末路を知る手掛かりになる。自分の家族以外に富を分かち合えない人、共存共栄の対極にいる人、お金に取り憑かれた哀れな人の行く末を考えたときにそこにしあわせがあるのだろうか。
お金をどれだけ溜め込めば、老後の心配がなくなるのだろうか。お金がどれだけあれば、満足できるのだろうか。
かんぽ生命の営業とカルロス・ゴーンは似ているように思う。成果を出せば、やり方も中身も関係ないと考えているのだろう。彼らと対極にいる普通の人のどちらに軍配が上がるかを決めるのは、結局、自分だということを自覚するしかない。