先週の金曜日に六義園に花見に行った。天気予報では週末から桜が開花すると報じていた。しかし、雨のそぼ降る午後の庭園は人影もまばらでわずかにしだれ桜が開花していただけだった。
しかし、庭園はよく整備されていて素直に日本の庭園はいいなぁと思った。歴史とか文化とかいうことより遠い昔にこの庭園の中に立って池や築山を眺めていた人は何を考えていたのだろうかという思いが頭をよぎった。
悠久の時間を感じながら家内と園内をゆっくり散策した。冷たい雨も庭園の静けさを演出しているように感じた。
子供の頃、団地の窓から雨が降る外の風景をぼんやり見ていた記憶がなぜかよみがえってきた。とりわけ外の風景が美しっかったわけではないが、庭園に立っているときの気持ちと似ているように思う。
昔はたいした娯楽もなかったが、夜、散歩すれば、東京でも空を見上げれば降るような星を見ることができた。東京の世田谷でもあの頃は道路が舗装されていないところがあり、雨が降るとぬかるみの中を長靴を履いて小学校に通っていた。夜、未舗装の道を父と一緒に近くのひざの高さまで雑草がぼうぼうに伸びた公園に散歩にいったことを思い出した。
現在は便利になり、都会の道はどこも舗装され、ちゃんとした公園に雑草がぼうぼうに生えていることはないし、夜も灯りが煌々としており、空を見上げても星もまばらだ。得たものより失ったものの方が多いように思う。
まして今では夜、親子で散歩に出るような人は皆無のように思う。子供の頃の父は夕方には帰宅しており、夕食は家族団らんでお膳を囲むのが当たり前だった。価値観を変えない限り、失われたものを取り返すことはできないと思う。
便利さや経済的豊かさを優先する生活を変えない限り、失われたものを見たり、感じたりすることはできない。家電のおかげで家事は楽になったが、生まれた余裕を仕事で埋めるような生活は本当にしあわせだろうか。
お金のために働いて老後はお金で苦労するような人生から解放される日はこのままでは来ないように思う。働かないと生きがいを感じられない人は死ぬまで働けばいいが、リタイア後は社会貢献のために時間を使いたい人や自由に生きたい人の生き方も尊重される社会が私はいいと思う。
愛国心のような狭い了見はいらないように思う。愛国心を語る人は自己中心的な人が多いように思う。愛国心より、道で人に会ったら会釈する程度の素養を持った人になってほしい。道で人にぶつかりそうになったらお互いにすみませんという言葉が自然に出てくる社会が私はいいと思う。謙虚とはそういうことではないだろうか。
六義園での散策後にこんなとりとめのないことに考えを巡らした。日本庭園は人口的な造作物だが、自然とは違った感情を人々にもたらす。
疲れたら庭園に行こう!たまには夜空を見上げよう! おしまい