矢作弘氏の「縮小都市の挑戦」を読んで改めてコンパクトシティを客観的に捉えることができたように思う。私は、人口減少と少子高齢化により社会に生じている問題を明らかにし、その解決策を考えてみたいと思ってこのホームページを始めた。そして、交通利便性と生活利便施設(役所、郵便局、病院、学校、保育所、ショッピング施設等々)をキーワードとして調べていた。
そうした中でコンパクトシティの取り組みを知り、コンパクトシティが上記2点のキーワードに合致するものと考えていた。矢作氏の本を読んで「縮小都市(Shirinking Cities)」論なるものがあることを知った。私は、この本を読んで日本語訳は、縮小都市ではなく、「縮む都市」とした方が言葉のニュアンスがより正確に伝わるように思った。都市の縮小の進行ということをテーマにしていることが明確に伝わる気がする。
コンパクトシティと縮小都市
ただ、コンパクトシティも縮小都市も目指す目標は「持続可能な都市」だそうだ。この2つの大きな違いは、出発点にあり、コンパクトシティは、最初に拡散していない集約型の都市モデルを描き、現実の拡散した都市をどう変えるかという対処療法的な空間計画だと指摘している。一方、縮小都市は、縮小している都市の現実を受け入れ、縮小することを前提にして、縮小により生じた「空き」をいかに活用して空間だけでなく、生活の質を上げるかを提案するもののようだ。
日本がコンパクトシティ論に傾斜している理由として、著者は、それが日本の縦割り行政の弊害から来ていると指摘している。都市の空間設計を担うのは国土交通省であり、都市の自治の問題は、総務省であり、教育や文化の問題は文部科学省が管轄している。各省は、自分たちの管轄する領域を不可分の既得権として領域を侵すものを排除し、省庁間であたかも暗黙の不可侵条約が結ばれているようだと私も感じている。その裏に族議員がおり、縦割り行政の改革はいつも掛け声倒れで終わっているように思う。
国土交通省の空間設計計画は、多額の公共工事として自治体に補助金が流れるため、自治体や企業、そして地元住民の受けがいいのも事実だ。しかし、こうした公共工事に地域住民の生活の質を上げるための教育や文化等の横断的な連携が生まれれば、地域の活性化がもっと促進されるかもしれないと私も思う。
ただ、私は、コンパクトシティか、縮小都市かという学際的な議論自体には興味がない。著者もまえがきで歴史的考察として2つの概念を取り上げているだけのように思う。要は、都市が人口減少と少子高齢化により縮んでおり、これからも縮んでいくという前提で街づくりを考えるべきだとこの本は主張しているように思った。
デトロイトとトリノ
著者は、都市が縮むことで生じる空き地や空き家、空きビルという空間をどう活用しながら街を活性化するかという手法の模索と検証の対象としてデトロイトとトリノを取り上げたに過ぎない。デトロイトもトリノもかつての自動車工業都市であったが、自動車産業の衰退により脱工業都市への脱皮が課題とされている都市だ。
両市を対象に選んだのは、都市再生の主体に着目したためのようだ。デトロイトは、民間の起業と企業による自主的、自発的な取り組みが中心であり、政府の影は薄い。一方、トリノはそれとは対照的に政府やEUなどの公共セクターが主役であり、民間の自主的、自発的な動きは乏しいという。これは、文化の違いによるところが大きいように思う。だから、日本には、日本に合った取り組みを行うべきだろうと私は思う。
トリノは、20世紀は自動車メーカー、フィアットのための工業都市として栄えた。現在は、世界から観光客を集める観光都市に変貌しつつあるが、フィアットの時代は、観光ガイドに載ることのない魅力のない工業都市だったそうだ。トリノでは、フィアットの工業都市以前は、バロック建築を始めとする層の厚い芸術文化がもともと存在していた。だから、日本の都市がトリノのような「都市イメージの変更」を行うことは容易ではないだろうと思う。まして、トリノの「カフェ文化」を持って来ても、そうした土壌のない日本には根付くことはないように思う。
ジェーン・ジェイコブズが提示した四原則
日本の風土に最も合うのは、下町文化ではないだろうか。そして、著者が本書の中で紹介している、ジェーン・ジェイコブズが提示した、都市が活力を維持したり、復活したりするために守るべき四原則に日本の下町が当てはまるように思う。
その四原則とは、
①街路は狭くて短いこと
②古い建物を残し、利活用すること
③人口密度が高いこと
④多機能的な地区が寄り添っていること
だそうだ。
問題があるとしたら、防災面の問題だろう。国土交通省がURや県の開発公社を通して進めてきた郊外へ延伸する都市政策の修正がコンパクトシティ構想のように思う。人口減少は、統計情報ではなく、現在、誰もが感じている現実だと思う。人口増加を前提にして進めてきた政策が破綻していることは誰の目からも明らかだ。そうした中で、まだ均衡を目指した公共投資を続ける自治体が一部にある。
規模の経済の終焉と人口減少
国の進めた「平成の大合併」は、大きいことはいいことだという、拡散した都市圏を修正するのではなく、規模の経済を通じて困窮した自治体を救済しようとした政策に過ぎなかった。深刻な人口減少を国民に示すことなく、対処療法的に進めた問題の先送り政策だったことは、合併した自治体の現在の深刻な財政状況がそのことを示している。人口減少と規模の経済の両立はあり得ないように思う。そして、予想された通り合併した自治体の大半は、問題を先送りし、今になって救済を国や政治家に求めている。
もし、人口が必ず減少するという事実が国から自治体や国民にきちんと示されていたら、現在の状況は、もう少し良い方に向かっていたのではないだろうか。アベノミクスも規模の経済を前提にしており、問題を先送り政策に過ぎない。まして規模の経済を前提にした地方創生など実現不能だろう。過ちと先送りのループのサイクルが縮まってきている。もうすぐ先送りする先もなくなる。
私も、著者の提案する、縮むことを前提とした都市政策しか未来はないように思う。悪く言えば、縮小均衡なのかもしれない。地球の資源は限られている。温暖化対策や海洋資源の保護、原発の廃止も結局のところ持続可能な地球を目差した、資源の利用と配分の問題に過ぎないのではないだろうか。
人口は、経済に比例しないのも現実のように思う。何故なら、貧困に喘ぐアフリカでは人口が爆発的に増えており、アジアでも経済発展を遂げた国ほど少子高齢化に悩まされている。中国しかり、韓国しかり、そして日本。自分の周囲を見ても経済的に恵まれているように見える健康な女性でも子供を生まない道を選ぶ人が現実にたくさんいる。人口対策は、減少を緩やかにすることしかできないのではないだろうか。現実を受け入れて対策を考えるべきだと思う。スローガンや思い込みだけで問題は解決しない。
空き空間に相応しい工房型商店(ショップ)
著者は、街づくりの手法として「ストア」から「ショップ」への転換を提案している。著者のいう「ストア」とは、仕入れて売るだけの商売(ネットを含む)であり、「ショップ」は、ストアの機能に加工して売ることを含んだ業態と定義している。ショップ=工房型商店の復活こそ郊外に拡散したスーパー等の安売り業態に対抗できる、生き残り業態ではないかとし、縮小都市の空き空間を埋めるにふさわしい業態だろうとしている。
食関係で言えば、確かに鮮度や無添加等の品質を重視した美味しいものを提供する工房型の商店(飲食店を含む)は、集客力があり、時代の影響をあまり受けず、たいして変化もせずに商売を続けている老舗が多いように思う。それどころか変わらぬ味と品質が信用と信頼となり、持続可能な商売として成立しているように思う。
本書を読み終えて、本の帯の「人口減少・高齢化時代にーもっと小さく成長する」というフレーズが印象に残った。著者は、経済誌の元記者であるが、大学の教授ということもあり、この本は、ちょっと学際的な色彩を帯びており、雑誌の特集記事より硬めであるが、新しい視点が得られたように思う。 おしまい
○日本の行政は商業地を起点に街をつくれない 団地とショッピングモール開発は何が違うか~街路をいかに魅力的につくるかが重要だというわけです。古い手法かもしれないけれど、彼は最初に魅力的な動線を描いて、残ったところに建物を建てる。…ャーディとアレグザンダー、それとジェイン・ジェイコブズの三人というのは、それぞれは違う方向性で活動していたのだけれど、方法論としては共通しているところが大きかったのかもしれません。
○人口激減、そのとき都市は――旧東ドイツの事例に学ぶ「新しい街づくり」(2008年7月)
*2005年を境に人口減少の時代に突入した日本。街づくりは人口増を前提にしているため、“縮小の街づくり”は研究段階にしかない。ここで紹介するのは、短期間で人口が激減した旧東ドイツ地域の街づくりの事例だ。街を縮小しながら活性化させる、“攻め”の街づくりとは?
〇「新国立競技場は建てちゃダメです」戦後70年の日本が抱える"リフォーム"問題とは【東京2020】
*記事抜粋
(神楽坂は)細い路地を残してますよね。
あそこ(神楽坂)は路地の方に入ると、再建築不可っていう分類になって、新しく高いマンションを建てたりできない。でも神楽坂は昔、花柳界の街だったとか歴史もあって、商業的な価値があるから、景観を残した方が全体としてよいでしょう、というのを地域、産業界、行政が同意してるんですよ。ここに広い道路作ってマンションがボコボコ建って、路地が全部潰れたら、街の価値がなくなる、という意識はすごくあるんじゃないですかね。