短い感想や情報発信をつぶやきと表現している。ツイッターに似ているが、読みっぱなしにして欲しい一方通行の投げかけ。他人(ひと)によってはごみでいい。他人(ひと)によってはヒントになるかも。私はツイッターやSNS、LINEが嫌い。ブログですら自分の備忘録として書いているから投稿を受け付けていない。内容は○○がいい!とか、○○が好き!とか、あるいは、こんな発見をした!といった“ちょっといいと感じたものたち”のことを記録として残そうと思っただけ…
<第19号>職人 (2019/3/23)
いつだったかよく覚えていないが、ラジオかテレビでピンキーとキラーズの曲を聴いた。多分、流れていた曲は「恋の季節」だったと思う。今、聴いてもいい曲だったなぁと思い、アマゾンでCDを購入した。気に入った曲だけiTunesでリッピングしてiPhoneに取り込んだ。
私は家でも車の中でもたいていの場合、曲をシャッフルして流しているのでピンキーとキラーズの曲もふいにかかる。「恋の季節♪」も好きだが、最近は「涙の季節♪」と「星空のロマンス♪」が流れてくるとなぜか心に響く。
ネットで歌詞を検索してみると3曲とも岩谷時子作詞、いずみたく作曲だったことに気がついた。いい曲だと思う曲は岩谷時子の作詞のことが多い。なんという才能だろうか。最近は心に残る歌詞が少ないから余計に感心してしまう。やはり、何でも職業として真剣にモノづくりに取り組んでいるプロはすごいなと思う。
回転寿司は気軽に寿司を食べに行くことができるが、一部のお店を除けば、寿司を握っているのは職人ではなく素人の人たちだ。昔、お寿司は何かあったときに食べるご馳走だった。寿司は食べたいだけ食べるものではなかった。
最近は職人の技術を時代遅れと揶揄する偉そうな人がいる。誰とは言わないが、お金がすべてだと公言するロクデナシがいる。大量に作って大量に売れれば、品質は重要でないと考える自称、本音人間の何と多いことだろうか。その結果が大量の食品ロスや使い捨て文化につながっている。
コンビニやチェーン店は便利かもしれないが、本当に必要なものだろうか。その代償として長時間労働と資源の無駄を産んでいる。私は一般の仕事は昔のように午後5時までに終われるように巻き戻せばいいと本心から思っている。飲食店も法律で営業時間を午後10時までに規制したらどうだろうか。
世の中、なければないで済むものがたくさんあるように思う。無用な競争はやめるべきだと思う。テレビの放送も昔みたいに深夜の放送をやめたらどうだろうか。深夜番組で生計を立てているタレントはどうするのだという声が聞こえてきそうだが、できない理由はいくらでも付けられる。原発がやめられない理由も屁理屈にしか聞こえない。原発が止まったら困る人たちの言い分があるだけだ。
セブンイレブンは24時間営業を前提にしくみが作られているから簡単に時短営業ができないと主張している。日頃、革新とか、チャレンジ精神とか宣わっているのに時短一つも“スピード感”を持って進められないのだろうか。“スピード感を持って”という言葉を組織のトップは好きだが、要はコストをかけずにとっと成果をあげろと言っているだけのように思う。
大企業であれ、街の個人営業の職場であれ、今後の職場に必要なのは熟練した技術を持った職人さんなのではないだろうか。自分の仕事に誇りを持てる社会を再構築するべきだろうと思う。
言っているとおり機械やAIで可能だという仕事ならどんどん機械やAIに任せればいい。生産性は人間でなく機械やAIの方に追求すればいい。生産性の低い仕事こそ人間が追求するべき仕事だと思う。生産性が低くても付加価値が高い仕事はたくさんある。人間にしかできない仕事こそ人間の幸せにつながる。長い熟練により習得した人間の知覚のすばらしさを思い出して欲しい。
岩谷時子さんは究極の職人だったのではないだろうか。彼女のレンズを通して見た世界を再現することはもうできない。所詮、機械やAIは道具にすぎない。使いこなす人間こそすばらしい。
<第20号>さくらの詩 (2019/4/3)
さくらの花びらが散る頃になるといつも思い出す詩がある。それは、中学か高校の国語の教科書に載っていた三好達治の詩だ。教室で先生が詩の解説をしている姿と詩の情景が今でも思い浮かぶ。「甍のうへ」というタイトルの詩だ。
さくら並木の下を歩いているときにさくらの花びらが散るのを見るといつもふいにこの詩の中の「をみなごに花びらながれ」というフレーズが自然と湧いてくる。
あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音(あしおと)空にながれ
をりふしに瞳(ひとみ)をあげて
翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
(三好達治 「甍(いし)のうへ」より)
👉詩の解釈はこうだ。
日本にはこういう優れた文学の世界がかつてあったのだとつくづく思う。私は中学から高校くらいまでの一時期、夏目漱石だとか森鴎外だとかの古典文学を読み漁っていた。
今の若者は何でもスマホで見たり、読んだりするのだろうが、紙で古典を読むべきだと思う。紙で読むときは読みながら想像し、思考する時間がある。その経験は後々、自分の大切な財産になるはずだ。
自然と物事を深く考えることができるようになると思う。静かに考えることができるようになり、世の中の出来事を冷静に受け止める力となるはずだ。あふれる情報の中から必要なもの、大切なもを見つけ出そう。
この詩に合うさくらの曲はないものかと考えてみたが、しっくりくる曲が残念ながら思い浮かばない。
とりあえずと言ったらとても失礼だが、「いくたびの櫻♪」をこの記事のエンディング曲とする。
<第21号>別れの朝 (2019/11/14)
この歌を最近よく口ずさむ。無意識に歌詞が出てくる。私はもともとカラオケが得意ではない。現役のサラリーマンのときに周囲に合わせて覚えたカラオケの曲はみんな、いわゆる演歌と呼ばれる曲ばかり。「長崎は今日も雨だった」とか数曲だけで「別れの朝」を意識して歌った記憶はない。
それなのに歌詞が出てくるから不思議だ。家でふと気がつくと最近、この曲を自然に口ずさんでいる。ネットで調べるまでペドロ&カプリシャスの高橋真梨子が歌っていた曲だとばかり思っていた。
しかし、ペドロ&カプリシャスのボーカルとして最初に歌ってヒットさせたのは前野曜子だったのだ。そう言えば、そんな歌手がいたことを思い出した。
さらに知らなかったが、オーストリアの歌手、ウド・ユルゲンスの「Was ich dir sagen will」のカバー曲だというから驚きだ。
ウド・ユルゲンスの歌♪もいい。高橋真梨子の歌♪も悪くはないが、やはり前野曜子の声♪で歌う「別れの朝」が耳に残っている曲だ。
記憶はあいまいだが、複数の歌手が歌っても犬が飼い主を忘れないように前野曜子の声を聞き当てる自信がある。曲のイメージと声が何年経っても頭に残っているからだ。
いみじくもこの曲がヒットした1971年に同じタイトルの映画が公開されており、私の好きなフランシス・レイが曲♪を手掛けている。ただし、映画の存在は今回、初めて知った。
<第22号>umbrella (2020/08/30)
YouTubeでいい曲がないかと探していたら、テレビで見かけたことがある不思議なグループ名が飛び込んできた。「SEKAI NO OWARI」だ。
最近、グループ名を見ても読み方すらわからないものがある。子供の名前に付けるキラキラネームの類なのだろうか。「SEKAI NO OWARI」はそれとは違う。ちゃんと読めるし、意味も分かる。だが、違和感を覚えるところが似ている。
昔なら、歌詞としては成立してもグループ名としては絶対に思いつかない単語だ。しかし、End of the Worldと横文字にすると違和感が消える。要は日本語の名前が違和感の原因なのだろう。
しかし、そのときは「umbrella」♪という曲のタイトルに惹かれて再生してみた。不思議な曲だ。一度聴いただけで何か心惹かれるものがある。気が付いたら病みつきになり何度も繰り返し再生している自分がいる。
歌詞をネットで検索して読んでみた。歌の中の「私」は傘のようだ。「私」は「君を守る為のそれだけの傘」と歌っている。この雨がこのままずっと降ればと願う「私」は雨が上がれば傘立てに置かれた傘になり、忘れた事さえ忘れられてしまったような自分を恐れているのだろうか。傘のはかない気持ちが伝わってくる。
何も望んではいけない 傷付くのが怖いから…
Yuyaのカバー曲 ♪もいい